マルタとは、旧満州で行われた帝国陸軍生物戦-第731部隊による生体実験の被験者の暗号である。
現代に蘇る悪夢は、限りなく現実に近い形で現れる。
1997年のマルタとは、私たちに他ならない。
巨大な実験場と化した大世紀末。逃げ場を失ったマルタの群れ、窮鼠猫を噛むの図。
現代の様々な澱が堆積する夢の倉庫=劇場から発信する「現代浮世草紙集」最新作。
TheatreGroup”OCT/PASS”vol.6
【東京公演】1996年3月7日(金)~9日(日)
こまばアゴラ劇場
【横浜公演】1996年3月11日(火)
本多劇場
【大阪公演】1996年3月14日(金)~15日(土)
島之内小劇場
【仙台公演】1996年3月21日(金)~
“OCT/PASS”スタジオ
【盛岡公演】1996年4月5日(土)~6日(日)
中三 ホール
〈出演〉絵永けい 石井忍 升孝一郎 あいた頼智 螺子転造 南城和彦 堀カナン
手塚のぶ絵 成瀬優子 佐藤貴之(新人) 中鉢大
撮影 深瀬澄夫
「1997年のマルタ」(冒頭部分) 作:石川裕人
二一世紀には残酷な試練があるだろう。感染症は依然として世界各地で死因の王座を占め、それはずっと先まで続くだろう。我々はさらに多くの
人獣伝染病、突然変異体、薬剤耐性細菌、微生物の新しいキャリア、環境破壊や人口増化を見ることになるだろう。しかし、我々の味方になるもの
もたくさんある。我々も微生物も、極めて高い相互適応能力がなかったら今日存在していなかっただろう。我々と彼等は、過去にも激変の中を生き
残ってきたのだ。我々は病気の出現するところを見たことがあるが、それが次第に毒性を失ったり姿を消すところも見たことがある。(中略)
病気から逃れようとして郊外あるいは原野に引っ越しても無駄なことはわかっている。大きなシャボン玉の中に保護された魔法の都市などはないし、これから先もないだろう。我々の最も気になる弱点は、自己の欲望を満たそうとする汚点だらけの記録である。無知、貪欲、そして目先のものへの
こだわりが、すでに持っている道具を使用させようとしないのだ。
アーノ・カレン「病原徴生物の氾濫」より
都市の懐にある廃物置き場―通称【ベルリン】。
何故このような名前がついたかといえば、一九八九年に崩壊した可能性の象徴だったベルリンの壁のかけらさえ廃物として投棄されているからなのだが。
動いていたときのことが忍ばれる具合に、様々なものは元が何であったかがわかる。
かつては人間の欲望のもとに作られた物たちは、だから夢の残滓である。
その残滓が重なり、巨大なオプジェのようにも見える。
遠くビルの屋上のランプが点滅している。
そんな場所を棲み処にしている人々もいる。
人間は、やはり逞しいといえるのかもしれない。
「ベルリン]の朝、とはいっても陽が差し込んでこないようなここでは時計でしか時間を知るよすがはない。
一人の老婆が自分で煮炊きをした物を食べながら新聞を読んでいる。その脇に少女がいて、食が細そうに食べている。
廃物に埋もれていてわからないが、男が別な場所で寝ている。
老染の名はルイズ、【ベルリン】の主である。
ルイズ (少女に)クー、
クー ・・・?
ルイズ また、ぽーっとして、(クーの皿の中を覗く)全然食べてない。いいか、食べな
ければ人間は元気がなくなるんだ。元気がなくなると何もしたくなくなる。何
もしたくなくなると寝てばかりいるようになる。寝てばかりいるようになると
自分が生きているのか死んでいるのかさえわからなくなる。そうなると面白く
ないぞ。何が面白くないって、夢を見る事が出来なくなる。夢くらい楽しいこ
とはないだろ?それも元気で生きているのか死んでいるのかはっきりしている
から楽しいんであって、
寝ていた男が起きる。
おっさん フワー、七時四十二分か・・・、
ルイズ おや、おっさん、あんた時計持ってたっけか?
おっさん なに言ってんだい、朝の説教の時間は毎日同じじゃないか。
ルイズ そうなのかい、
おっさん クーも毎日説教されて嫌だろうなあ。
ルイズ この子はなにか言葉をかけてやらないと駄目なんだよ。今まで言業をかけられ
なさ過ぎたからこうなってる。本当に嫌だったらここを出ていくよ。
おっさん そういうもんか、
ルイズ 食べるかい?
おっさん 夕べ仕入れて来たハンバーガーだろ?
ルイズ ああ、チーズだのキンピラだのフィレオだの全部混じってるよ。
おっさん (気持ち悪くなり)ゲロしそうだ。
ルイズ なんだかいい調子で帰って来たと思ったら、二日酔いかい?
おっさん おかげさんでね、
ルイズ 羨ましい事だ。
おっさん ルイズおばあも酒飲むんだっけか?
ルイズ 昔は浴びるほど飲んだが、
おっさん 浴びるほど、そいつこそ羨ましいや。
ルイズ ふん、酒なんかで意識を麻痺させてるとろくな事ないよ。
おっさん 麻痺させなきゃ生きていけませんよ。
ルイズ 新聞は調違つかなかったかい?
おっさん 相変わらずの世間だよ。
ルイズ 変わった事だらけのかい?
おっさん 世界を動かしてた捩子が外れたみたいに、変な事、突拍子もない事、開いた口
が塞がらない事のオンパレードだ。
ルイズ よく世間の人はおかしくならないもんだ。
おっさん とっくの昔に切れてるって、
ルイズ おっさんの家族はどうしてる?
おっさん どうしてるかなあ、考えたこともないよ。
ルイズ あっちもおっさんのことは考えてないだろうねえ。
おっさん ああ・・・、まさか【ベルリン】にいるなんてノーマルな人間の考える事じゃ
ない。
ルイズ ここは自由と解放の象後だったベルリンの壁のかけらさえ廃棄されてるところ
だ。
おっさん だから【ベルリン】と呼ばれている。
ルイズ そう、名前を付けたのはテレビのレポーターやってた宗教学者だった。
おっさん そういう事もあったなあ、
ルイズ 昔々の話なあ、世の中がバブルで浮かれている時だった。「都市の光と闇」と
かいうテーマでテレビ局も浮かれてたよ。『こんなところがバブルで疲れ切っ
た都会人のオアシスになっている事こそ、物質文明の終りを予感させる。まさ
しくこの廃棄物の滞積された場所と、生産活動を続けるビル群との境界は、一
九八九年に崩壊したベルリンの壁を思い出させます。どちらの側からも越えら
れないという意味で。」なんて付け焼を刃みたいな事言ってね。そいつだって
宗教のバブルで登場したような奴だったから、普遍的な事がわからない。エセ
宗教の殺人事件が元で消えちまった。あれから一回たりともここに来たことが
ないよ。まあ、でも【ベルリン】って名前は酒落てたから、拝借したってわけ
さ。
おっさん なるほど、確かにいい名前だよ。
ルイズ 今では差別の対象になってしまったが、
おっさん 泣いてる子供が黙るくらい怖いところになってしまった。そんな事は全然ない
んだけどなあ。
ルイズ クー、食べたかい?
クー (かすかにうなずく)
ルイズ おっさん、本当に食べないんだね?
おっさん ああ、いいよ。俺はもう少し寝る。(すぐいびきをかきだす)
ルイズ クー、片付けておくれ、
クー、食器などをゆっくり片付け始める。
ルイズ いつものところで洗って食器を拭いて棚に置いとくんだよ。
クー、ゆっくり去る。
ルイズ (空を仰ぎ)今日は・・・、晴れてるようだね。どれ、コンビニで週刊誌でも立
読みしてくるか、
ブツクサ言いながら去る。
入れ替わりに入ってきた男がいる。汚れたコートの襟を立て、
深々と帽子で目を隠し、バッグを持っている。
男は回りを確認し、バッグを置く。
男は小林という。
小林 ・・・ここが【ベルリン】か、ここなら少しの間は身を隠せるかもしれない。
バッグからケージを出す。
その中にマウスがいる。
小林、ぶっきらぼうに話し始める。
小林 さあ、着いたぞ。
居心地がいい実験室の環境とは雲泥の差だが、お前はあそこで殺される心配は
なくなった。ベクター(病気の運び手)として都市に放される事もなくなった。
お前はこの世界で最悪のウィルスの宿主だ。エイズ、エボラより最強のウィル
スをその体内で培養している。
お前は死んでしまったほうがいいんだ。俺がお前を殺してやる。お前はここに
死ぬためにやってきた。人知れず、凶悪な企みを闇に葬るためには、ここ【ベ
ルリン】は最適な場所だ。お前が悪いんじゃない。悪いのは俺たち人間だ。だ
が、その悪魔の手に染まってしまったお前を生かしておくことは、この世馬を
殺してしまうということになる。どっちをとる?俺は今まで研究者として何千
匹もお前の仲間を殺してきたが、お前とお前の中で培養されているウィルスを
とるほど狂った愛情は持ち合わせていない。
クーが登場して、じっと男を見ていた。
小林は驚き、マウスをバッグに入れようとする。
※続きが読みたい、上演希望の方はお問い合わせください。
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